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芸能

いかりや長介 アフリカ旅行動画と名言【初公開】終の棲家”長椅子”『中山秀征の究極ハウス』

いかりや長助のアフリカ旅行の映像初公開!

晩年に作った、離れにある”終の棲家”!

随所に配置された長椅子の秘密とは!?

 

碇谷浩一を育てた教育論も独白?

それは「感謝」と「謝罪」。

その意味するところはなんなのか?

 

素直に伝えることの難しさと大切さを、

学ぶことができます。

『中山秀征の究極ハウス』の放映につき、

いかりや長介の”素顔”に迫ります!

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いかりや長介 長男、碇谷浩一が語る“父の素顔”

KBC九州朝日放送制作のバラエティー番組『中山秀征の究極ハウス』

 

タレントの中山秀征が著名人の家を訪問し、

家を通してその人が持つ素顔・魅力や人間性を

突きつめていく番組です。

 

<初公開のいかりや長介アフリカ旅行の旅>

いかりやさん長男の、

碇矢浩一(いかりやこういち)さんも出演し、

テレビとは違った“父の素顔”を明かします!。

 

今回は、

2004年に亡くなったいかりや長介さんが

50歳の時に購入した一軒家に中山が訪れます。

 

放送日:7日(テレビ朝日系列 午後1:55~3:20)

 

 

いかりや長介の長男が中山秀征に語る父の素顔

中山が注目したのは「庭付き一戸建て」のとなりに建つ“離れ”。

 

いかりやさんは、この“離れ”を「終の棲家(すみか)」

だという思いで建てたそうです。

 

キーワードはズバリ「楽園」!

 

その“こだわり”をひもとくのは、

いかりやさんの妻がしたためたメモ。

 

そこには、

いかりやさんがどんな思いでこの家を建てたのか、

調度品のひとつひとつにどんな思いを込めたのか

などが鮮明に記されています。

 

そこに使われた建具や家具、庭に植えられた木々など、

そのすべてに“こだわり”が秘められています。

 

 

そのどれもが超のつく一級品ですが、

一時代を築いたスターの「大豪邸」という感じではない。

木の温もりを感じる、昔ながらの日本の戸建てです。

 

その思いは、

ずっと仕事人間としていきてきたいかりやさんの、

心を平穏に保てる自然に囲まれた場が欲しい

という思いであったのではないでしょうか。

 

その真相は、

ご近所さんとのおしゃべりを楽しむためだったそうです。

玄関先にも椅子を設けて、ご近所さんに座っていただく。

 

ご近所付き合いを大事にされていた、

いかりや長介さんらしいエピソードですね。

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いかりや長介へ長男から「おやじは不器用だけど、かっこよかった」

ミュージシャン、コメディアン、そして俳優。

 

多彩な活躍で、人々の記憶に刻まれた、

いかりや長介さんが亡くなって11年。

 

「おやじはものすごく不器用な人だったと思う。
だけど、かっこよかったし、自慢の父親でした」。

 

このように長男の碇矢浩一さんは振り返っています。

 

 

家で過ごすわずかな時間にも時として、

制作現場で見せていた妥協を許さない厳しさが顔を出したという。

マンションからビール瓶を落として遊んだときは

容赦ないげんこつが飛んできた。

 

「悪いことをしたら、
骨身に染みさせるというのがおやじのやり方でした」

 

子供たちを叱るときは、

生きていくうえでの指針を示しました。

 

「『ありがとう』『ごめんなさい』を言える人間になれ」

 

感謝と謝罪を率直に伝えることの難しさと大切さ。

それは、長年グループで活動し、

人間関係の困難を体験してきた実感から

来ていたのかもしれない。

 

こうした教えを守れなかったときは、

特に厳しく叱責された。

 

「でも、怒りっぱなしじゃなかった。
家族といる時間には、全力で家族を
ハッピーにしようとした」

 

一緒に風呂で遊んだり、

6歳上の姉とともに遊園地に行ったり。

 

テレビで見せた“強面(こわもて)”な

イメージとは異なり、

幼い子供たちに自身を「パパ」と呼ばせていたそうです。

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いかりや長介さん 碇矢浩一への思い

社会に出る息子には、

「真っ当なサラリーマンとしての人生を歩んでほしい」

と望んだそうです。

やはり、いかりや長介さんが相当苦労されたからでしょうか。

 

碇矢浩一さんはこのように語っています:

 

「今は違うかもしれないが、
おやじの中では『サラリーマン=堅実』という考えがあった。
リスクのない堅実な人生を望んだのは親心だったんでしょう。
子供ができた今は僕にもそれがわかります」。

 

就職活動の際、

父と接点の多い仕事をしたいという思いはあったが、

最終的に入社試験を受けて一般企業に入る道を選びました。

 

人気コメディアンという地位にこだわらず、

一から努力を重ねる父の姿は、

社会に出た息子に、大きな影響を与えていました。

 

「営業先でよく『おまえ、本当にしつこいな』といわれたものです。
でも、僕にとってそれは最高のほめ言葉だった」

 

いかりや長介さんが、

頚部(けいぶ)リンパ節がんを発症したのは15年4月。

亡くなったのは翌年3月でした。

 

浩一さんは父の生きた証しを残すため、

ドリフターズ事務所の代表取締役になりました。

 

 

「誰よりもおやじ自身が悔しかったはず。
だから亡くなったとき『これからは俺が家族を守る』と思った。
どこかで見守っていてくれたらなと思います」

 

このように語り、

次期社長は偉大な父が作った会社と家族を守っていきます。

いかりや長介 碇矢浩一さんへの子育て教育論 まとめ

・いかりや長助の教育論は「感謝」と「謝罪」。「『ありがとう』と『ごめんなさい』を言える人間になれ」

・一から努力を重ねる父の姿は、社会に出た息子や家族に大きな影響を与えている。

読んでいただきありがとうございます。

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